イラストレーター秋山亜軌の日記を中心としたブログです。イラストレーターとしての活動報告をはじめ、美術や映画、音楽の話、興味のある出来事など、幅広い話題を独自の意見を絡めて執筆しています。

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「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展

9日、「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展を国立新美術館に見に行きました。
旧プラハのメンバーで。プラハというのは、デザインフェスタに出品してた僕の絵画グループの名前なんですけど。その中の三人(僕と彼女さんとカリナちゃん。)で行ってきました。
国立新美術館はまだ今年できたばっかりの美術館で、六本木をアートの街にしようという動きの中でできたものだそうで、ヒルズの森美術館、サントリー美術館と共にアートのトライアングルを構成しています。
国立新美術館、新しくてでっかくてきれいでよかったですよ。照明も明るすぎず暗すぎずでよかった。ブンカムラやブリジストンの方が僕は親近感が持てて好きだけどね(笑)。
で、ここに尊敬してやまないフェルメールの絵が来るということで、絶対行かねば、と思ってたんですが。
フェルメールは17世紀、非常に当時高価だったラピスラズリという原石から印象的な青を使って、労働者階級の人々のごく普通の日常を、光の効果を用いて静謐な雰囲気で描いた画家として、知られていますが、同時に寡作(作品が少ない)の画家として知られています。全部で34、5点程度しかないんです。それが災いしてフェルメールの生涯は多くの謎に包まれています。
日曜画家で、1点1点時間をかけて描いていて、描いた絵はすぐに売れてしまったそうで、当時とても高い評価を受けたものの、作品の少なさ故、すぐ忘れられ、注目を再び受けるのは近年になってからのことです。
その数少ないフェルメールの作品の中でも、今回初来日した「牛乳を注ぐ女」は評論家の間でも最も優れた作品として支持されています。
なぜ、そんな作品が新設したばかりの美術館に貸し出されたかというと、意外すぎる理由がありまして、この作品を所有してる美術館から「アスベスト」が検出されたため、改装工事を行ってるんですね。その期間貸し出されたってわけなんですね。
これは「アスベスト」に感謝です(笑)。

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↑さて、これがその「牛乳を注ぐ女」。英語では「ミルクメイド」。まんまやん、て感じでしょ。日本語タイトルの方がいいよね。
この作品がメインだったので、作品のまわりにはすごい人だかりができていました。まずまん前では立ち止まれない。とても小さな作品なので(フェルメールの場合大抵が小品。)何度も行ったり来たりして、その素晴らしさを確認する。
この人の作品というのは印刷の絵から受ける印象と生で見る印象が大分違います。
印刷から受けるイメージは繊細で薄塗りで丁寧に描かれている印象を受けるけれど、実際に見ると、意外と重厚な絵肌で、繊細といえば繊細なんだけど、その反面、大胆に描かれている部分があることに驚かされます。技量や画力はもちろん同時代ではトップクラスでありながら、1番脅威だと思うのは、その思い切りの良さであったりします。
この絵ではパンの点描による描き方、それと永遠に流れるような、時間が止まってしまったかのような、流れるミルク。光のデフォルメとでも云うような、大胆な照明の当て方。右半分にほとんど何も描かず、極限人物だけに目がいくように配慮された構図などです。
普通のそのへんのちょっと腕に自信のある画家なら、上手く、きれいにまとめようと思うあまり、退屈で勢いや緊張感のない画面になってしまうことがおうおうにしてありますが、この人にはそれがない。
洗練された実力を持ちながら、遊び心や新しい挑戦を恐れずやっているところが素晴らしかったです。
人物の衣服の色使いは三原色の組み合わせなのですが、これも絶妙に彩度がコントロールされていて浮いていないのがすごい。
フェルメールが単に上手いだけの画家だと思っている人には是非本物を見てほしい。新しい驚きがあるはずです。

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↑それで期待はしていなかったんですが、フェルメール以外でもいい作品がわりとありましたので、紹介しておきます。
バッケル・コルフの「ぼろ布の籠」。この衣服のしわくちゃ感の表現、かなり質感を上手く描き分けています。精緻画派(細部に至るまで細心の注意を払った筆使いをする17世紀の画家達の流派。)という流派の人達を大変尊敬していたそうです。いい仕事してました。

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↑こちらはカスパル・ネッチェルの「子供の髪を梳く母のいる室内」という作品。ママのシルクのスカートの質感。これもかなりそれらしく描けています。触ったらこんな感じ、と想像できるくらいリアリティーがある秀作。質感の描き分けという点ではとても勉強になる美術展でした。

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↑こちらは水彩による作品。ビスホップの「日の当たる一隅」。田舎の素朴な生活を描くハーグ派の画家。この作品はフレッシュでみずみずしくてよかった。とても受ける印象が爽やかでした。

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↑これは、そのハーグ派の中心人物とみなされているヤーコプ・マリスの「窓辺の少女」。ラフですばやい輪郭線のタッチが生き生きとしていて、とてもこの少女に強い生命力を与えているように感じました。すごくいい作品ですね。こんな名前も知らない画家で、いい画家がたくさんいるものなんですね。
この時代の絵って題材は皆一緒なのにすごく振り幅が大きいのがいい。
バルビゾンに影響を受けているものの、バルビゾンに比べると自由度が大きい。バルビゾンはミレーとコローだけ見ればいいものね(他は似たり寄ったり。)。中にはブリューゲルやジョルジュ・ド・ラ・トゥールなんかを彷彿とさせるような作品もあり、フェルメールは見方によっては印象派やロマン主義的にも見える。この展覧会、面白いです。見て損はないです。

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↑帰りは神保町に新しくできた焼き鳥屋さん「やきとり道場」で夕食を食べてきました。安くておいしい焼き鳥屋さんです。お店も広い。鍋もありましたよ。
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  1. 2007/12/10(月) 01:35:45|
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gregory colbert ashes and snow

先日、りんかい線に乗ってお台場へ行ってきました。ノマディック美術館にて開催されている「gregory colbert ashes and snow」を見るために。
これは「ashes and snow」という、写真作品、映像、美術装置、手紙形式の小説が一体となったアートプロジェクトの一環。グレゴリー・コルベールって人は僕は知らなかったのですが、キャリアとして、パリで社会問題を扱うドキュメンタリーフィルムを制作し、その後映画制作から、芸術写真の分野へ転身したアーティストなんだそうです。僕は絵画以外の芸術には疎いのですが、渋谷トナカイ(僕の仲間内の総称。)のなっちゃんが珍しく誘ってくれたので、行こうと思った。彼女の感性にひっかかるものならきっといいものだろうな、と思ったんです。
写真と映像がメインということで、いつもの絵画を鑑賞するような感じじゃなくて、肩の力を抜いて、全くの予備知識なしで、素直に楽しめればと思って鑑賞しました。

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↑お台場の観覧車。この日は快晴。絶好のお出かけ日和でした。

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↑これが、ノマディック美術館。「ashes and snow」を行うための移動美術館として、日本人建築家の坂茂(ばんしげる)によって設計されました。ニューヨークにはじめて登場し、その後サンタモニカに移動、ここお台場で3ヶ所目になります。5300平方メートルにも及ぶ巨大な仮設美術館であり、旅を続ける今作品のコンセプトを象徴した美術館です。この美術館、とても武骨でカッコよくて雰囲気があるんですが、なんと152個の貨物コンテナで組み立てられているのです。コンテナは移動先でレンタルされ、会期が終わると返却されます。移動美術館ていう趣向は新しいですね。街にやってきたサーカス団みたいなニュアンスですね。環境にかける負担も少ないし、決してビジュアル的にダサくなってるわけではない。僕は必要以上に芸術家が環境問題に傾倒するのは好きじゃないし、必然性を感じないけど、それがやってる側も、見る側も楽しめる程度のものなら大歓迎です。

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↑そして、これがグレゴリー・コルベールの写真。前半は象の写真が続きます。パンフの表紙にもなっているだけあって、この写真は見事だと思う。どの作品もデジタル画像処理や合成などを加えずに、レンズを通して見たままに記録されたそうです。全ての写真がアンバーとセピアの色調で表現され、手漉きの和紙に独特の手法で焼き付けられています。

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↑前半は象と原住民の子供の写真がずらっと並んでるんですが、これがかなりの大きさの写真で、迫力と地平線の見えない自然のダイナミズムを感じることができました。全く予備知識がないので、象専門の写真家かと思ったんですが、中盤、後半は他の動物も被写体になっています。僕的には、象の写真だけでよかったかな、と思います。それくらい、象の写真は魅力的で、たぶん象っていう被写体がいいからなんですが、中盤、後半、他の動物を見ても前半の感動を超えなかったし、逆に気持ちが盛りさがってしまった。それはこの芸術家の変に作為的な意図のようなものが見えてしまったからなんだけど。

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↑象は被写体として、迫力があるし、優しさと強さどちらも感じさせる雰囲気のある動物だと思った。どこか神の使いのような、神々しさも感じる。象の目のアップの写真なんか最高だった。深い皺は古代の彫刻のようなクラシックさを感じるし、その深くに埋まっている優しげな眼は、伝説の宝石かなんかに見える。個人的に、村上龍の「フィジーの小人」やゲームの「ワンダと巨像」とかを思い出しました。リンクするところがあるんですね。

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↑その後、中盤で映像作品などを挟んで、大自然の写真は続きます。ただ、中盤、後半は前述したように、作家の意図的な部分が見えてしまう。見ている側もわざとらしいくらいに感じてしまう。自然とそこにいる野生動物と、人間の共生がおそらくこの写真展のテーマ。人間とその他の動物が手をとって平等に暮らしていけるか。僕はその答えは「NO」だと思います。わざとらしいくらいに寄り添っている動物と人間の写真。僕はそれを素直に肯定できない。シビアに考えれば、絶対に自然と人間は平等ではないはずです。人間が進化すればするほど、地球にとっては害になることで、しかし人間は進化を拒めない生き物です。人間は地球を滅ぼすために生まれたエイリアン、ウイルス、そんな提唱をする学者もいるくらいです。そして逆に自然は人間にとって有益なものばかりを与えてくれるわけじゃないし、牙だってむく。
この写真展には、そういうシビアな面が描かれていなかった。問いかけではなく、共生を肯定の目線でしか描いていないのが僕にはマイナスでした。それが押し付けっぽくてイヤだった。これでオチに自然が無情に人間に牙をむくような写真でもあれば、評価も変わるけど(笑)、それも後味が悪いので、普通にメッセージ性なんか持たせないで、象の神秘性とダイナミズムで雰囲気重視の写真展にまとめてほしかった。変に気になるくらいなら、意味なんて持たせない方がいい。皆さんはどう感じましたか?

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  1. 2007/05/03(木) 00:57:54|
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スーパーエッシャー展

●1月4日 スーパーエッシャー展
去年やり残した美術鑑賞、第二弾はエッシャー展。渋谷のブンカムラまでおでかけしました。
なぜ冠に「スーパー」をつけたのかは最後までわからなかったけれど、エッシャーにどれほどの知名度があるのか、そんな主催者側の不安が読み取れるようなタイトルですね。エッシャーの作品はいいし、面白い。盛り上がりもよさそうだ。でもメインを張るのはダリに対抗するには頼りないな、そうだ、せめて「スーパー」と付けて箔をだそう、みたいな。ダリとエッシャーの美術展が同期に別の美術館で開催される、それは偶然とは思えないのです。でもそんな心配をよそに、はるかに予想を上回る人気ぶり。僕もエッシャーを甘く見てました。もうちょっと空いてると思ってました。チケット売り場は45分待ち。まずはチケットを買うのに一苦労でした。

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↑ダリに比べればマシでしたが、こちらもなかなか混んでましたよ。

今回連休を使って、ぶっ続けでダリとエッシャーを見たのですが、個人的にはとてもいい意味で両美術展は対比になっていたような気がします。誰に云わせても、天才と云うであろうダリに比べ、エッシャーは努力家、研究家の秀才タイプといった感じがしました。タイプ的にはミュシャなんかに似てる。果てしない実験と検証の末、ようやく1枚の作品に取り掛かるというタイプですね。
この美術展はテンションの上がり下がりが激しかった。前半、並みの版画家であったエッシャーがだんだん物事を斜めから見るトリッキーな視点を獲得していく課程が面白くワクワクしたと思えば、中盤の旅の風景、正則分割の章では食傷気味な感じで失速。後半では正則分割もモチーフや構図に幅が出てきて、面白くなってくる。ラストのだまし絵ではメッセージ性のようなものまで感じられ、なるほどと思わされる良作に満足度も膨れ上がってくる。
エッシャーが版画という手段を使っていたのが、とてもよかったと思う。版画には線だけを際立たせる効果がある。絵画ではもっと要素が増えてしまう。1つ1つの刻まれた線を鑑賞者が辿っていくことで両者に温かい関係性が生まれる。もしこの人が他のもので表現をしていたら、もっと無機的で冷たいものになっていたでしょう。それほどに数学的、科学的な論理性に基づいて作り込まれた作品がエッシャーの世界なのです。芸術というものを考えると、ある程度偶然性に頼っている部分があると思うんですが、この人の作品には偶然性は皆無。全てはエッシャーが仕掛けたトリックであり、彼にとっての快感はそのゲームををいかにして完全犯罪として成立させるかにあったのでしょう。
僕としては、彼の人生が2度あれば、もっともっと面白くなったのではないかと思っています。本展で見る限り、この人の作品は実験と検証の期間が比重として長いので作品に結実するまでやたら時間がかかってしまいます。晩年になればなるほど、複雑に巧妙に彼のトリックに磨きがかかっていくのがわかります。僕みたいにのらりくらりとやっている人には人生は1度で充分ですが、こういう人が自己実現するには2倍くらいの時間が必要なんじゃないかな、と思います。
ダリと比較して分析するなら、ダリは芸術のオールラウンドプレイヤー。古典から現代までの技法をマスターしている絵画辞典のような人。その一方で偏執狂的で、強迫観念的。メディアに出たがり。アバンギャルドで新しいもの好き。
エッシャーは引き篭もりの版画オタク、作家としてはあくまで裏方に徹した。潔癖症で完璧主義者で、職人的。
ざっと、並べてもそれだけの違いがあります。では、共通点。共に基本ネガティヴ思考で、自分や世の中に対する批判、不安、怒りを表現しています。けれど気付かれないように、シュールやトリックという服を着せて、時には誇張し、茶化し、玄関は広めに空けておく。楽しそうだと何も知らずに世界に足を踏み入れると鑑賞者達はいつの間にそこに潜んでいる毒にサブリミナルのように侵されていく。そう考えると、エッシャーがサイケデリックの人々から熱く支持されたのもわかります。2人とも非常にプライベートな問題を扱ったけれど、それがより多くの人々に浸透したのはパッケージに面白さ、中毒性があったから。
僕がこの2つの美術展で1番学んだことは技術でも構図でも線でも色彩でもなく、いかにして人を驚かせるか、ということに執着するサービス精神というか、こだわりでした。
エッシャーは人というより自分が驚きたいという気持ちで制作してたように思いますけどね。数学者は数学の理路整然とした公式に美しさを感じるというし、理論が弾き出す永遠にロマンを感じていたと思う。永遠というものは数式の中では存在するから。エッシャーはずっと暗い地下室で、精神と時の部屋のような世界で制作に没頭していたんだろうな。時に独り言を云って、理論が刷り下ろした紙の上で上手く成立するとにやりと笑って、それが世に出てどういう反応が起きるのか、楽しみで仕方ないって感じだったろうな。
逆にダリは、おしゃれに奇抜な格好で外に出て行って、自分が影で汚い格好で苦心して描き出した作品がどう評価されるのかをダイレクトに感じたかったんだろうと思います。
美術館に行って、絵画とそういう語らいをするのもまた楽しみ方の1つです。これはなんらか作品を作ったり発表する機会のある人じゃないとわからない楽しみ方かもしれないですけどね。もっと色んな見方ができると思うんです。
では、最後に気に入った作品を少しずつ紹介します。

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↑「カストロヴァルヴァ、アブルッツィ地方」。
前半ではこの版画にひきつけられました。エッシャーが世界の風景を描いていた頃の作品。まだ作風というのが出来上がってない時代なので、そのままを描いている(構図は実際の見え方と変えて、絵になるように工夫してはいるけど。)。だから元々面白い景色を描いた絵は面白いし、そうでないものはつまらない。実際、イタリアの風景はすごいんだろうな。僕がここで特筆すべきは雲の捉え方。こんな風に雲を描いた絵は見たことがない。間違いなく私的には前半のハイライト。24の寓意画シリーズもよかったけどね。

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↑円の極限Ⅳ(天国と地獄)
中盤、正則分割の実験と検証の同じような作品が続き、マンネリしてくるのですが、ポツポツと実を結んだような作品が現れはじめます。最初、平面で魚だけ、蜘蛛だけ、という同一のモチーフで正則分割していたものが、複数のモチーフを組み合わせたり、立体的になっていったりすることで、正則分割に深みや動き、意味が生まれてきます。「昼と夜」という作品は正則分割と風景を組み合わせ、鳥の動きと時の流れを1つの画面で表現する画期的な作品。「空と水」は魚がだんだん鳥に変化していき、循環を繰り返す世の中のシステムを表現したような作品。ここではモチーフを単純化させることによって全体的なごちゃごちゃ感を抑えすっきりとした見栄えにするような工夫も見られます。
そして、円の極限という版画シリーズのⅣ、「天国と地獄」では、天使と悪魔というモチーフを選ぶことによって、エッシャーのテーマのような無限性を最大に引き出すことに成功しています。僕はこれは最先端の宗教画と呼んでもいいんじゃないかと思う。その後、立体作品にも正則分割を反映させていきます。
次は球面鏡を利用して実験と検証の作品が続き、「バルコニー」という名作が生まれる。エッシャーはそういうたくさんの習作の果てに傑作を1、2点生み出すというサイクルを続けていきます。

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↑「でんぐりでんぐり」
エッシャーがボッスに影響を受けているのはなんとなくそうだろうなと思っていたので本当にそうだと知った時は少し嬉しかった。ボッスは世紀末、混沌とした社会の中で、当時では考えられないような鬼畜な宗教画を描いた画家です。おそらく今あるモンスターという概念を生み出した最古の人で、そのカテゴリーでは誰も勝てないでしょう。エッシャーのだまし絵にはボッスの絵画で出てくる衣装を着けた人物まで登場するくらいエッシャーはボッスの世界に魅せられていた。この「でんぐりでんぐり」もおそらくはボッスの影響で生まれたものでしょう。このモンスターがだまし絵の中で乱舞する「階段の家」も非常に面白く、鑑賞者からの人気も高かったように思います。でんぐりでんぐりは想像上の生き物ですが、完璧主義なエッシャーですから、そのアクションも実際理にかなっていて、動作可能なもの。動きまで想像できると説得力が出てきます。ちょうど、今自分の絵でもキャラクター制作が流行ってまして、僕も見習いたいと思いました。エッシャーはこっちのキャラクター制作の方面でもっとがんばってもよかったんじゃないかと思います。もっとこっち方面でもみたかったな。完璧主義者ゆえ、大量生産ができないのがこの人の弱点ですね。

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↑滝。
いわずと知れたエッシャーの最高傑作。これに限らず、後半のだまし絵シリーズはエッシャーの突出した才能を見せてくれます。「上と下」、「物見の塔」、「上昇と下降」。永遠に続く数式のような世界に迷い込んだ、限りある儚い命を持った人間が生活している。あるものは物憂げに考え事に耽り、またあるものは上を目指そうと前進する。入り口や出口があるのか、ただ繰り返しを続けるのか、そんな問題定義をエッシャーの絵から感じます。個人的であれ、世界的なことであれ、関わっていく深いテーマです。僕らは答えを出すために生まれてきたのか、それとも謎解きをする課程が人生なのか、永遠に解けることのない知恵の輪にえんえんと時間を費やしてしまうように、エッシャーの絵には立ち止まってしまうのです。
  1. 2007/01/04(木) 20:45:07|
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生誕100年記念ダリ回顧展

●1月2日 生誕100年記念ダリ回顧展
1月2日、再び上野へ。この日はダリの回顧展を見るためにやってきました。去年見たいと思っていた美術展で、見られなかったのがダリ展とエッシャー展だったので、年始になんとしてもこの2つを見ておきたかった。まずは会期が4日までのダリ展から制することに。

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↑入り口からダリが不意打ち気味にお出迎え。

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↑「やれんのか?」挑発的に難問を投げかけるような表情に高揚感は膨れ上がる。

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↑会場は長蛇の列。90分待ちの大盛況です。

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↑見てくださいよ。この人の列。

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↑さすがダリ。人気者です。とりあえずこんなに絵を見るために並んだのは初めてです。藤田の時より混んでました。

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↑なんとなく田中角栄時代にモナリザが日本に来た時の映像を髣髴とさせる。テレビでしか見たことないけど。

僕の中でダリは1人の画家という以上に、セザンヌと並んで「近代絵画の父」という見方をしてしまいます。ダリと云えば天才や狂気というフレーズがまず取り沙汰されますが、先人の絵画の流れを完全に理解し、技術をマスターし、リスペクトを忘れていない人だということも重要でしょう。だからとても学べる部分が多いのです(ミレーの晩鐘をはじめ、他の人の絵画で発見してくれたことも非常に多い。)。
古典から近代までの絵画を分解し、技術や技法、様式を用いりながら、わかりやすく誇張したり、最新の科学と組み合わせたり、時には別の1面をフィーチャーしたり、その多彩さには驚かされます。しかもそれが単なる模倣で終わらずに、自分の表現まで昇華させているところがすごいのです。
ほとんどの作品は画集で見たものだったので、それらを生で見たらどういう感動があるんだろう、当初の鑑賞のポイントはそこに持っていったつもりでした。下地の感触はどんなか、タッチの付け方、色の置き方はどんなか。でも実際ダリの絵を目の当たりにすると、その複雑で奇妙な世界観に魅せられてしまって、テクニックの部分にはあまり目が行かなかったですね。会場がすごく混んでたのもあり、あまりニュートラルな気持ちで見られなかったのもあるけど(はみ出しちゃいけない線があるじゃないですか、そこに人に押し出されて入ってしまうくらいの大混雑、狂乱ぶりだったのです。)自分の中で、頭で考えるより、感覚で味わう種類の美術展だと鑑賞ポイントの切り替えがありました。
もちろん表現に幅のあるダリだから、技術面でうならされた作品もありました。それが「パン籠」という作品。この作品が僕の中では1番「本物」を見ることによる感動は大きかったな。他を寄せ付けない神の域に達した技術によって紡ぎ出された作品だと思いました。フェルメールのように静謐な世界を感じます。そこにはただのパンと籠を描いただけなのに、神々の世界を匂わせる。宗教的な観念までを描き出している。

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↑「パン籠」。シュールレアリズムの作品群の中で一際光る、ダリの高度な技術力を証明するような作品。でもこれも写実を凌駕するっていう意味ではシュールレアリズムだと思いました。それくらいの肉薄したリアリティーをこの絵は持っています。写真やスーパーリアリズムでは描けないリアリティーがこの絵にはあります。

ダリのたくさんの無意識のイメージとでも云うべき、作品群を見ていると、この人の作品はシュールレアリズムで、ありえない世界を描いているわけなんだけど、どれも妙に現実感を伴っているんですよね。シュールレアリズムなのに現実的。ダリが描いている世界はファンタジーでは決してない。そこが面白いと思った。
実際にそんなことが起こりえるのか、誰もが想像するけど、敢えて絵にすべきことでもないようなことを描いている。実際に存在するものがその物質としての本来もつべき、形状や質感、常識を覆してしまう。当たり前だと思っていたものが、ある日目の前でいともたやすく覆ってしまう、そんなことが僕らにはおうおうにしてあります。ダリの絵にはそんな社会への寓意も込められているのではないでしょうか。
ところで、ダリと比較するとなると、すぐに同じくスペインの天才として真っ先に浮かぶのがピカソですが、天才の定義づけって一体なんだろう、そんなこともこの美術展を見ていてふと感じました。より多くの優れた作品を残すこと?幅広いジャンル、スタイルの絵画を描くこと?技術が卓越していること?唯一無二の世界を描けること?その答えは結局わかりませんが、ダリとピカソ、そして藤田、この3人の天才が同じ時代を生きていたと思うとなんだか興奮します。
ダリとピカソの天才性は似ているけど、ピカソが晩年、幼児的な絵画に画風を変えるというのは懐疑主義的というか、後退的な感じなのに対し、ダリは常に最新の科学を作品に吸収していったのは進歩的な感じがします。でもどちらが天才というのは僕には云えないですね。ただダリとピカソを比較してみるのは面白いと思った。

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↑ダリの絵で見たことがなかった絵の中ではこの「奇妙なものたち」が強烈に焼きついています。赤と濃紺の色彩の強烈なコントラスト、ダリのほかの絵画に見られる象徴的なモチーフ(溶けた時計、パン、ピアノ、引き出しなど。)をふんだんに配し、見事に淫靡な怪しさと美しさの危険なバランスを醸し出すことに成功しています。更には1枚ものの絵の中に様々な痕跡を残すことによって、見る側に様々なストーリーを想像させる工夫をしています。イスに残る人影や、ドアの開きかけのファスナー、何が覆ってあるかめくってみたくなるモコモコ蠢いている布など、ダリが心理学を巧みに利用しているのも伺えます。

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↑「記憶の固執の崩壊」。「記憶の固執」は見たことがある人も、こっちの崩壊バージョンは見たことがない人が多いのではないかと思います。これは原子核の発展を絵画に取り込んだ作品。この絵を見ていて考えていたのは、ロシアの人体実験。冷戦時代にロシアは瞬間移動の実験をしたという噂があります。原子を分解させ、再び元に戻すというものですが、失敗し、下半身のみ出ている状態で、上半身は壁と同化したとかグロい話を聞いたのを思い出しました。あと「キューブ」や「ザ・セル」って映画だとか、もろこの絵のイメージですよね。ダリが後世に残した影響って計り知れないと思います。

他にも素晴らしい作品はたくさんありました。「早春の日々」「手(良心の呵責)」「秋のパズル」「愛情を表す2切れのパン」「生きている静物」「世界教会会議」など、どれも捨てがたい傑作揃いでした。
「世界教会会議」を見るといつも胸が痛くなるのですが、ダリのガラに対する愛情はどこか神格化していて一方的なもので、高村光太郎の智恵子に対する愛情と似ています。ダリの幼少期から続く報われない不遇な愛の遍歴がこの狂った天才的な世界を生み出したと思うと、画家の中では成功したダリと云えども常に孤独で幸せとは云いがたいなあ、なんて思ってしまいます。
ところで、今回の美術展、鑑賞者の感想がレベルの低いのが多かったなあ。絵を見ながら、ほかのお客さんの声に耳を澄ましてると、皆一様に、これは何を描いてて、こういう意味で、っていう見方しかできないんですよね。日本人特有なのかもしれないけど、ものがあったとすると、それが自分の理解できないものだと、あいまいなまま受け入れることができないみたいなんですよね。あげく意味がわからないとイライラして連れに八つ当たりしてる人までいました。皆頭で考えちゃって、感じる見方ができないんですよ。神経質で職人気質なのが日本人。技の細かさとか技術を見るのは得意なんだけど(ついでに人情や風情にもめがない。だから印象派は定着する。)、芸術方面はからきし向いてない。まあこれだけ混んでる美術展で、難問ふっかけるようなダリの絵、しかもその絵には答えなんかないわけで、本当はあまり大衆向けではないんですよね。ダリって。でもあれだけメディアで取り上げられたから普段絵を見慣れてないような人まで来ちゃう。それは美術の発展として悪くないけど、なんだかなあって思っちゃいました。とりあえず付き合いたてのカップルとかファミリーには目を覆いたくなるであろう作品もたくさんあったし、その辺はどうなんでしょうね。

P.S 同期にブンカムラで開催されてるエッシャーとも何か偶然ではない関連性を感じます。ダリのダブルイメージなんてまさしくトリックアートのそれだし。僕的にはエッシャーよりこっちでした。

  1. 2007/01/03(水) 21:11:20|
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没後30年 高島野十郎展

先日、「没後30年 高島野十郎展」を三鷹市美術ギャラリーに見に行きました。
野十郎をはじめて知ったのは、去年頃かな。新日曜美術館のアートシーンでちょこっと紹介されただけなんだけど、すごく絵の持つオリジナリティーと存在感に惹きつけられてしまって、その時に三鷹にくるっていうのはわかってたので、今年なんとしても見たい美術展の1つになっていました。なかなかスケジュールの調整がつかなかったのですが、最終日になんとか見に行くことができました。これがなかなかに期待を裏切らないいい美術展だったので、感想を書こうと思います。
まず、野十郎という人を簡単に紹介します。近年評価が高まりつつある画家で、青木繁と同郷の福岡県久留米市出身の画家。東大の農学部水産学科を主席で卒業しながらも、周囲の反対を押し切り画家の道へ進みます。数年間小さなグループ展で活動し、その後は個展のみを作品発表の場とします。
昭和36年からは都心を離れて千葉県柏市の田園に質素なアトリエを建て、自給自足の生活をします。
「世の画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進です。」という言葉を残し、生涯、美術の流行や画壇に左右されることのない己の絵を追求します。
野十郎という画家を一言で云うと、とてもストイックな画家であるということが云えると思います。特別な師がいるわけでもなく、特別な技法があるわけでもなく、とにかくこれでもか、というくらい写実的で、絵の対象をでき得る限り忠実に、誠実に描いている。
私的にはあらゆるエンターテイメント性、娯楽性を廃した、まるで画家ではなく、一人の僧が修行の手段として絵画を取り入れている。そんな風に思えました。そう、野十郎の絵画とは修行です。誰に見せるためのものでもなく、非常に閉鎖的で個人的でストイックな絵画。描くモチーフですら、仏教、禅を思わせるのです。
前置きはこの辺にして、内容に入ろうかな。序盤は3点の自画像で幕を開けます。

りんごを手にした自画像

3枚の自画像は数年おきに描かれています。これは3枚目。いずれも自己に対して厳しい目線が向けられており、確実に1枚目より2枚目、2枚目より3枚目、とレベルアップしています。1枚目はどこの画学生でも描けそうな感じ。2枚目にはクオリティーの高さ、安定感が出てきて、3枚目では対象のもっと奥にあるものまで描けている。
この頃、野十郎はゴッホの影響を受けていたようですが、私的にはエゴン・シーレの自画像を思い浮かべました。
ただ痛みを伴う絵でありながら、威厳のようなものも感じるのが、エゴン・シーレとは違うところ。ここに野十郎の命の捉え方の核の部分を見た気がします。

すいれんの池

自画像の後、静物や風景画の展示が続きます。静物にはセザンヌ、風景にはモネやゴッホなどの印象派の影響が垣間見え、あまり名作、良作と思うものには巡りあえませんでした。この美術展大丈夫かあ?、自画像しかいいのないんじゃないの?そんなことすら思い始めました。あまりに色数が少ない(同じ色ばかりを散らしている。)のと、朴訥すぎる風景画が続き、飽和状態になりつつありました。技量的に特に抜けているわけでもなかった。あまり色彩のセンスも線の巧みさも感じることができなかった。その中で目を引いたのは上の大きな絵。「すいれんの池」という絵です。技量がこのへんから一気に上がってきて面白くなっていきます。

流

例えばこの絵。「流」という絵ですが、この絵には単なる写実主義とは云えないほどのモノを見る執念のようなものを感じます。これこそ、この画家の才能だと思います。色彩でも線でもなく、モノを徹底的に見る力。絵は描く以上に見ることが大事だと思い知らされた瞬間が野十郎の美術展では何度もありました。この絵もその1つ。

雨 法隆寺塔

この「雨 法隆寺」という絵は最近修復によって、蘇った絵。センチメンタリズムを誘い、感情を喚起するようなこの絵に、僕は他の風景画とは違うクラシックな質を感じました。それは自分が日本人であることに大きな関係があるのかもしれないです。

ティーポットのある静物

一連の風景画の展示の後で、再び静物コーナーが始まります。ここからの展示は同じ画家が描いたと思えないくらいの腕に成長しています。野十郎の真骨頂。メレンデスに匹敵するほどの高い写実力とクオリティーを誇っています。これが自己流で身に付けた画力と思うと驚きです。それを思うと、高いテクニックを教わる以上に孤独な時間が画家には必要ということかもしれません。自分だけの世界に没頭し、周りの雑音が聞こえなくなるところまで行ってしまうこと。

からすうり

この「からすうり」という作品には、写実力の他に画面の構成力の高さも見ることができます。色数の少なさもここでは洗練されたように見え、オレンジが映えてとても美しい。からすうりというモチーフも風情があって、個人的に非常にモチーフ選びにセンスがあると思う。

無題

僕の中では野十郎作で、ナンバー1と思っている作品。一見、抽象画のように見えるこの絵は、タイトルこそ「無題」とされていますが、これはまぶたを閉じた時の残光を描いたものと云われています。この作品の前に一連の太陽を描いたシリーズがあるのですが、目を閉じても光が見える、そういった野十郎の達観した心境が見えるようで妙に感動しました。だって究極の写実でありながら、同時にイマジネーションもすごく広げてくれる絵じゃないですか。そして、闇の中の光を描くという野十郎の絵のテーマにもそっているし、全てを手に入れたような絵だと思うんです。

満月

闇の中に浮かぶ月を描くシリーズ。ただ、それだけのことでありながら、夜空は同じ風景を保っていない。月は満ち欠けするし、雲も風の冷たさも日によって全く違う。野十郎の絵に対して一番感じたのは、これといって特別なことを何もしていない、ということです。常にストイックで、神経は全てそこにあるものを見つめることに注がれています。そして晩年どんどん余計なものは削られていき、野十郎の描くべき核、骨組みが剥き出しになっていく。そう、この人は引き算の画家なのです。色数も対象もどんどんシンプルになっていきます。

蝋燭

最後の展示は「蝋燭」シリーズ。このシリーズの展示、すごくよかった。真っ暗な部屋に小さな蝋燭の絵がたくさん掛けられており、絵にピンポイントで照明が当てられています。三鷹市美術ギャラリーだけの粋な展示方法なのか、いつもこうやって展示されているのかはわかりかねますが、これがとてもドラマチックな効果を生み出しています。本当に蝋燭の炎が揺らめいているようで、生命の儚さを感じて、非常に素敵な演出と思いました(でも、絵痛まないのかなあ。)。これは上野のような権力の大きな美術館ではできない演出ですね。普通の明るい部屋で見たのでは、相当印象が違ったと思いますよ。このシリーズが最後にあることで野十郎その人の人生にも思いを馳せることができた。死ぬ時に走馬灯のように思い出が頭を巡るという。そんなイメージも喚起させるようでラストとして最高の展示だったと思います。
ただ美術館全体がクーラーききすぎなのは寒くて困っちゃったけどねえ。
  1. 2006/07/25(火) 01:50:22|
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